歴史

現在の浄光寺

植木市の賑わい

  青龍山浄光寺は天台宗に属し、「木下川の薬師さま」として広く親しまれてきました。その創建は古く、葛飾区内で4番目に永い歴史を持っています。
  浄光寺はかつて、いまより西北約600mのところにありましたが、荒川放水路の開削工事のため、大正8年(1919)5月、現在地に移ってきました。その後、関東大震災や太平洋戦争によって諸堂宇や寺宝に被害を受けますが、そのたびに復興を遂げ、信仰を育んできました。毎年4月8日には植木市が開かれ、周辺から集まった多くの人びとでにぎわいます。
  また昭和58年(1983)には本格的な文化財調査が行われ、翌59年、文化財14件がいっきょに葛飾区指定文化財になりました。52年と53年の指定と合わせ、現在指定文化財16件を数え、区内で有数の文化財の宝庫となっています。

浄光寺の誕生

  浄光寺の歴史は、嘉祥2年(849)に始まると伝えられています。その頃から江戸時代に至るまでの歩みは、「青龍山薬師仏像縁記」(区指定文化財)によって追うことができます。「縁記」のなかで、浄光寺創建のいきさつは次のように描かれています。

  「延暦7年(788)、最澄(伝教大師)は比叡山に一乗止観院(のちの延暦寺)を開き、みずから彫刻した薬師如来像を安置すると、さらに東国の教化(人びとを仏の道に導くこと)を願いふたたび薬師如来像の製作にとりかかりました。ところが、途中まで彫り進めたところで神霊のお告げがあり、未完の薬師像を下野国(いまの栃木県)に帰国する大慈寺の僧広智に託すことにしました。関東にくだった広智は嘉祥2年のある日、下総国木下川で唱翁と名乗る老人に出会い、請われるままに薬師像を唱翁の草庵に安置しました。その後、浅草寺に滞在していた僧円仁がこの話を知り、貞観2年(860)弟子の慶寛に命じてその草庵に一寺を建立させ、「浄光寺」と名付けました。以来、浄光寺は薬師如来像を本尊とし、人びとの信仰を集めることになりました。」

  それから浄光寺は中世の戦乱のなかでしばしば荒廃しますが、そのたびに信徒の手によって復興され、近世の「平和」を迎えます。

江戸時代の浄光寺

浄光寺の風景
(「江戸名所花暦」国立公文書館蔵)

  天正18年(1590)小田原の後北条氏を滅ぼすと、豊臣秀吉は徳川家康に対して関東への転封を命じ、後北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の6ヶ国を与えました。   8月1日(八朔)江戸城に入った家康は、領国の支配基盤を固めるための政策を次々と行っていきました。有力社寺に領地を寄進することもそのひとつでした。浄光寺も天正19年(1591)に薬師供養料として五石の朱印地(年貢・課役が免除された領地)を寄進されました。そしてこのとき、住職良完によって諸堂宇の改築もなされ、新たな姿で江戸時代を迎えることとなりました。
  慶長8年(1603)家康は征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました。それにともない、それまでの寺院統制をさらに展開させ、元和元年(1615)「寺院法度」を発布し、寺院の政治的特権を奪うとともに、全国の寺院を本末関係(本寺―末寺)に編成しました。これにより浄光寺は浅草寺と本末関係をむすび、江戸時代を通じて浅草寺末派筆頭としての寺格を保つことになります。
  元和2年(1616)4月、家康はこの世を去り、日光東照宮に祀られました。その2年後、二代将軍徳川秀忠は祖霊をいつでも参拝できるようにと江戸城内紅葉山に霊屋を造営し、別当職に浄光寺を任命しました。徳川家と浄光寺の関係はますます親密なものとなり、将軍家の代参(代理人)が毎年のように訪れ、将軍家自らもたびたび参詣に訪れました。

境内にある薬師道道標

  浄光寺に信仰を寄せたのは、もちろん将軍家ばかりではありません。庶民からも、薬師仏が病気直しに霊験あらたかだとして、たいへん多くの信仰を集めていました。とくに元禄期以降、庶民の生活が豊かになったことにともない、物見遊山を兼ねた寺社詣がふえてきます。浄光寺も薬師道をたどってやってくる江戸の庶民でにぎわったことでしょう。浄光寺はまた杜若の名所としても知られ、庶民文化が花開いた文化文政期(一九世紀はじめ)には、おおぜいの庶民にまじって杜若を愛でにきた文人墨客の姿も見られたようです。幕臣勝海舟も幕末期に浄光寺を訪れたひとりでした。江戸時代に描かれた地誌や紀行文などを眺めると、境内には本堂・仁王門・白髭社などが甍を並べ、参詣者でにぎわっていた様子がよくわかります。
  ところで、江戸時代の浄光寺に関連して、もうひとつ忘れてはならないことがありました。それは鷹狩りです。

鷹狩り

  鷹狩りとは、飼い馴らした鷹を用いて鳥獣などを捕らえる狩猟法で、放鷹・鷹野ともいいます。その歴史は古く、日本でも5~6世紀にはかなり普及していたことがわかっています。鷹狩りは古来権力者の独占するところとなっていましたが、家康はとくに鷹狩りを好み、75才でこの世を去るまで実に1,000回を越える鷹狩りを行ったそうです。だからといって、家康は鷹狩りを奨励していたわけではありません。むしろその統制を図り、幕府を開いてからは大名や公家の鷹狩りに制限を加え、さらに幕府指定の鷹場内での鷹狩りを禁止しました。この鷹場を借りることができたのは一部の有力大名だけでした。厳格な幕藩関係は鷹場からもつくられていったのです。
  家康は鷹狩りに行った先々で農民の生活を眺め、家臣の知行所支配が順調に行われているかどうかを視察しました。農民に対しては直訴を認め、鷹狩先で裁判を行うこともありました。また、鷹狩りを口実に軍事訓練を行い家臣団の強弱を把握するなど、家康が家臣団統制と地方支配に鷹狩りを利用しようとしたことがうかがえます。

吉宗の時代

木造山号扁額(葛飾区指定文化財)

  鷹場制度はその後、三代将軍家光のときに整備されます。五代将軍綱吉が出した「生類憐みの令」により廃止に近い状態になりますが、八代将軍吉宗のときに復活しました。享保元年(1716)9月に改めて指定された江戸近郊の鷹場は次のとおりです。

沼辺領 世田谷領 中野領 戸田領 平柳領
淵江領 葛西領 八条領 品川領

  これは寛永期(家光の時代)の鷹場と変りありませんが、翌享保2年2月に、葛西・岩淵・戸田・中野・品川・六郷の六筋に編成しなおされ、享保10年に六郷筋が品川筋、品川筋が目黒筋と改称、以後、幕末まで継続しました。
  浄光寺が将軍鷹狩りの際の御膳所(将軍が食事をとる所)に定められたのも吉宗の時代、享保5年(1720)のことでした。吉宗もまた鷹狩りが好きで、その回数は年に10回から20回に及んだと言います。『徳川実記』によると、享保5年には葛西方面へ6回鷹狩りに訪れ、浄光寺にも立ち寄っています。

その後の浄光寺

浄光寺の風景
(「嘉陵紀行」国立公文書館蔵)

  江戸時代が最も花開いたとされる文化文政(1804~30)の頃になると寺運はますます隆昌し、寺域も広く、本堂、東照宮、観音堂、鐘楼、仁王門、大客殿、講堂、太神宮殿、山王権現、弁天堂、白髭社などの諸童宇が甍を並べました。幕臣勝海舟も浄光寺を愛した1人で海舟の書簡なども当山に残されています。また、明治12年(1879)7月、西郷隆盛(南洲)の死を悼んだ海舟が南洲の留魂祠、留魂祠の碑を浄光寺境内に造立しましたが、現在は洗足池公園に移転されています。
  現在地移転後、釈迦堂の再建、仁王尊・仁王門の修復再建を経て平成10年には新薬師堂を再建し、明治維新より130年振りの秘仏本尊薬師如来の開帳大法会を行いました。その後12年ごとに秘仏本尊薬師如来の開帳法会を行うことになりました。